覚賢五輪塔

覚賢五輪塔を見に行くには、まず浄光明寺を参拝します。
公開日程に合わせて、浄光明寺が開いている時間に参拝すれば大丈夫です。
浄光明寺の客殿の横を進むと階段があり、これを登ると有料拝観エリアの入口にたどり着きます。そこで拝観料を支払い、奥へ進みます。仏殿や観音堂では、仏像を拝ませていただくことができ、無料で丁寧な説明もしていただけます。
その後、浄光明寺の裏山をさらに登り、冷泉為介の宝篋印塔の後ろから山道に入ります。



写真を見ていただくと分かる通り、普段は開かれていない場所ですが、年に一度、この時期だけ特別に公開されます。
山道を登って下ること、およそ5〜6分。
木々の間から、ついに覚賢塔の姿が現れました。






高さは328.1センチあるそうで、写真でもその大きさは十分に伝わるかと思いますが、実際に目の前に立つと、想像以上の迫力に圧倒されます。静かな山中に佇むその存在感は、思わず息をのむほどです。



この覚賢塔は、極楽寺にある忍性塔に次いで大きな五輪塔だそうです。忍性塔は残念ながら撮影禁止のため写真でご紹介することはできませんが、◯月◯日が公開日となっており、「北条重時公」ゆかりの塔としても知られています。
貴重な機会ですので、ぜひ実際に足を運んで、そのスケールと空気感を体感してみてください。
今回のお勧め本は、岩田文昭編集, 碧海寿広編集『知っておきたい日本の宗教』ミネルヴァ書房 2020 です。
日本人は無宗教と思っている人は多いと思いますが、この本を読めば、日本人の宗教観覚について分かります。日本には神社やお寺、新宗教などの施設がたくさんあります。外国の方にどう説明したらよいでしょうか?
初詣やお墓参りは「宗教」なのか_禅や瞑想を行う日本人は多いのはなぜか?キリスト教徒やイスラム教徒はどうしているのか?など知ってるようで意外と知らない日本の宗教について、必須の基礎知識を身につけられる宗教学入門です。


多宝寺
多宝寺は「多宝寺谷」の名で知られており、山号は扇谷山です。一方、現在の浄光明寺の山号は泉谷山ですが、読みはいずれも同じ「せんこくさん」です。
『新編鎌倉志』によれば、「多宝寺谷という所あり、寺はなし」と記されており、寺院そのものについての記述はなく、石塔について述べられているのみです。この石塔が、現在「覚賢塔」と呼ばれているものです。
鎌倉の多宝寺谷を中心とする一帯に所在した。現在は廃寺で、寺域は、南は泉の井あたり、東は泉ケ谷の奥に通じる市道、北は泉ケ谷最奥部の谷までと考えられている。西ははっきりしない。
多宝寺が実際にいつ創建され、いつまで存在していたのかは明らかではありません。忍性が極楽寺に移る前には多宝寺の長老であったことは間違いなく、1267年に忍性を招いて極楽寺が開かれたとされていることから、多宝寺はそれ以前に創建されたと考えられます。
『日蓮聖人註画讃』には、忍性の雨乞いに浄光明寺とともに参加している記事があり、多宝寺が極楽寺とは別の寺院として存在していたことが分かります。
また、「延慶三年(1310)十一月六日延焼」との記録や、極楽寺の長老を多宝寺の長老だった順忍が1315年に嗣いだとされることから、この頃までは確実に存在していたようです。
しかし、江戸時代に刊行された地誌『新編鎌倉志』(貞享二年〈1685〉刊行)の時代には、すでに多宝寺は失われ、跡地となっていました。
多宝寺谷奥に建つ大五輪塔は、『新編鎌倉志』や『鎌倉攬勝考』などの史料では、かつて忍性塔と伝えられていました。しかし、関東大震災で倒壊し、その後の復旧工事の際に舎利容器が発見されたことで、この五輪塔が覚賢和尚の墓塔であることが判明しました。現在は「覚賢塔」として確定しており、重要文化財に指定されています。
参考資料
👉 貫達人・川副武胤『鎌倉廃寺事典』有隣堂 1980(今は売ってない本)
👉 松尾剛次 『鎌倉極楽寺流の成立と展開 -初代から九代までの極楽寺歴代住持に注目して-』山形大学大学院社会文化システム研究科紀要 第14号 2017
覚賢とは
覚賢(かくけん)(?-1306)。
鎌倉時代末期の律宗僧侶。多宝寺の長老であった。詳細な事蹟などについては全くわからない。舎利容器の「多宝寺覚賢長、遺骨也、嘉元四年二月土八日、入滅」)とある銘文から存在が知れるのみである。
1306年、覚賢の後に多宝寺の長老となったのが順忍で、その後順忍は1315年に極楽寺の長老となった。当時は、多宝寺から極楽寺の長老になるのがルートになっていたのであろう。
五輪塔と宝篋印塔
五輪塔は、インドの「五大思想(地・水・火・風・空)」を起源とし、これら五つの要素を五つの輪に見立てて石塔の形にしたものです。日本では平安時代から鎌倉時代にかけて主に供養塔として造立され、とくに関東地方では鎌倉時代に多く見られます。
当初、供養の対象は庶民ではなく、ほとんどが武士など身分の高い人々でした。その後、日本に伝来した当初は上流階級の墓として用いられ、江戸時代になると庶民の一般的な墓として広く普及していきます。
現在では意味合いが変化し、先祖供養や身元の特定できない死者の供養のために建てられることが多くなっています。五輪塔に納骨することは、宇宙の構成要素を象徴する「地・水・火・風・空」と一体となり、故人が極楽浄土へ往生することを願う意味が込められています。

宝篋印塔は、卒塔婆をかたどったものとされ、「関東形式」と「関西形式」の二つに大別されます。
関東形式は、塔身に輪郭(枠線)があり、基礎の側面も輪郭によって二段に区切られ、さらに基礎の下に反花座を置くなど、装飾性の高い造形が特徴です。
一方、関西形式は塔身や基礎に輪郭がなく、簡素で落ち着いた形をしており、日本全国に広く分布する基本的な形式とされています。
写真に見られる冷泉為助の宝篋印塔は、これらの特徴から関東形式であることが分かります。
アクセス
覚賢塔には浄光明寺の裏から行きますので、浄光明寺に行きましょう。
浄光明寺
扇ヶ谷2-12-1
北条長時が真阿和尚(真聖国師)を開山に招き、建長三年(一二五一)に建立した赤橋流北条氏の菩提寺。鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏が一時螫居した寺としても知られ、その後も足利氏により厚い庇護を受けた。裏山には阿仏尼の子で冷泉家の祖である歌人・冷泉為相の墓もある。
👉 古都鎌倉一三仏霊場巡拝「九番札所 浄光明寺」より
極楽寺を建てたのが父である北条重時、浄光明寺はその息子の長時。繋がりは深いですね。


浄光明寺には見所がたくさんあります。
①阿弥陀三尊像:土紋様式の仏像で国重要文化財
1299年(正安元年)に北条長時の孫である北条久時の発願により造立された、鎌倉時代後期の作。
②矢拾地蔵:県重要文化財
ある戦の最中、足利直義が矢を使い果たして困っていたところ、一人の小僧が現れ、落ちている矢を拾い集めて直義に差し出しました。戦後、直義が日頃信仰していた地蔵菩薩像を見ると、その地蔵が矢を握っていたため、あの小僧は地蔵の化身だったと分かったと伝えられています。この伝説から「矢拾地蔵」と呼ばれるようになりました。
③網引地蔵:由比ヶ浜の漁師の網にかかって引き上げられた石造地蔵菩薩坐像です。この地蔵は浄光明寺の裏山にある「やぐら」と呼ばれる石窟に安置されており、鎌倉二十四地蔵の一つに数えられています。地蔵の背中には「正和二年」(1313年)の銘が刻まれており、浄光明寺第三世長老性仙和尚が供養したとされています。別の情報では1325年(正中2年)の銘とされています。

④冷泉為助宝篋印塔:和歌の名門、冷泉家の祖
現在ある宝篋印塔は、江戸時代に徳川光圀が建てたものと伝えられていますが、その様式からは南北朝時代のものと考えられています。

⑤泉ノ井:浄光明寺の門をもう少し歩いた左手、鎌倉十井の1つ

今回のお勧め本2冊目は、 亀田俊和著『観応の擾乱 – 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』中公新書 2017 です。
浄光明寺は足利尊氏が後醍醐天皇に対し挙兵する直前、籠っていたと伝えられるお寺です。
足利尊氏が室町幕府を開いて、その弟の足利直義が補佐したんですが、最後は戦っちゃうんですよね。そんな~Why? に答える本です。
1990年のNHK大河ドラマは「太平記」でしたね。足利尊氏を真田広之さん、足利直義を高嶋政伸さんが演じてましたが、妙に残ってます。そうそうたる俳優の方々の競演です。
👉 NHKアーカイブス「太平記」



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